ペット、「かわいい」を一心に受け止める存在
実家に住むコーギー犬のバルが、ごはんを食べられなくなった。
名古屋の両親から電話を受けたのは、2022年の12月中旬。
35歳、はじめての胃カメラを終え、ほっとして検診センターの前にある餃子屋で、水餃子を食べているときだった。
庭にもでれず、ほぼ寝たきりなのだという。
16歳。コーギーにしてはご長寿。
歩く早さは随分とゆっくりになっていたし、眠る時間は増えていたけれど。
春に東京に来たときや、夏に実家に帰ったときには、ごはんも散歩も楽しんでいるようだった。
春に中野に来た。
その年の夏は、コロナの影響もあって3年ぶりにはじめて、両親、スイスに住む弟夫婦、東京に住む私たち夫婦が実家に集まった。
再会に喜んでいたのか、皆の楽しそうな雰囲気からか。
バルはかなり久しぶりに、少しだけぴょんぴょんと跳ねた。子犬の頃を彷彿とさせるその姿に、家族一同喜んだ。
皆を見て嬉しそうにしている。
11月に会ったときは、不安そうな鳴き声で、やたらと部屋の隅に行くようになっていた。認知症の症状なのかもしれない、ということだった。
マイペースでふてぶてしいキャラから一変、心配な状態だったけれど、そのときはまだ自分で歩き、ごはんも食べていた。
散歩が難しくなってきた頃。母の上着を着て、外の空気にあたる。
それから1ヶ月、急激に容態が変わったのは、脳の病気があるかららしかった。
高齢で手術や検査をする体力もないため、治療は難しいということだった。
電話を受けた週末、実家に帰った。
オムツをつけて、ぐったりと寝そべるバルの姿には、ショックを受けた。
長らく、年齢のわりにふてぶてしく元気、というキャラだったから。
水は100均のドレッシングボトルから(犬介護の定番らしい)、ごはんはシリンジで離乳食のようなものをあげているのだという。
病気の影響で、首の向きを自分でうまく調整できないから、膝の上に身体を載せて、首を支えながら。
がっしりと強靭な身体だったのが、すっかり変わってしまったようで、恐る恐る膝に載せて、両親に教わりながら水をあげる。
そのあと、横に並んで、久しぶりに一緒に昼寝をした。
眠っているときは、苦しくなさそうで、少し安心した。
スイスの弟夫婦からのテレビ電話があると、聞き覚えのある声に反応してか、動かない首をなんとか頑張って上げていた。
水餃子を食べながら電話を受けたときは、ごはんも食べれなくなり、いよいよという雰囲気だったのだけれど。
思っていた以上に、家族思いの犬だったのかもしれない。
それから、またごはんを食べるようになり、少し持ち直した。
一旦、仕事や引っ越しのために東京に帰り、また実家に戻ったのは年の瀬。
変わらず寝たきりだし、苦しそうにはしていたが、少しずつごはんは食べている。
両親は二交代制で、付きっきりで面倒を見ていた。
それが幸せなのだという。お世話できるのが、嬉しいのだと。
私もバルを膝に載せて、首にタオルを巻いて(口の端から水やごはんがたれてしまうから)、話しかけながら、シリンジでごはんをあげる時間が、幸せだと思った。
家族は皆、共に過ごせる時間への感謝と、苦しそうにしていて心が痛む気持ちの間にいるようだった。
バルが実家に来たのは、私が上京して2年目、弟が実家で浪人生をしている頃だった。
家族のメンバーがある程度大人になってからきた子犬は、皆に甘やかされ、かわいがられた。
両親からは、孫のように。弟からは、歳の離れた兄弟のように。
私にとっては、離れて暮らす甥のような感覚だった。
悪いことをして叱っても、耳を後ろにして反省する素振りを見せると、皆すぐつい「かわいい」と言ってしまう。
逆にそれがよかったのか、マイペースでふてぶてしい態度ではあるものの、情緒が安定して、わりといい子だった。
映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の海賊に似てワイルドな顔をしているからと、バルボッサという名前をつけたのは私だ(一般的には下の名前ではなく、名字だとは何年も気づかず…)。
家に来たばかりで、海賊並みに眼光が鋭かった頃。
飼いはじめてしばらく経ってから実家に帰ると、母と弟が「ばーたん」と呼んで、猫可愛がりしていて、びっくりした。「ば」しか残っていないし、海賊味が一切消えている……。
なんて呼び方だとひいていたのに、いつのまにか私も、ばーたんと呼んで、猫可愛がりしていた。
犬嫌いだったはずの父も、早寝早起き(9時に寝て、4時に起きる)でせっかち同士、気が合ったのか、ばーたんばーたんとかわいがりはじめたのには、驚いた。
先代のダックスフンドのときは、子供部屋のベッドにのせるのも怒られたのに、ばーたんとは自分が一緒に寝ている。
退職後は、より可愛がっていた。
小さなダックスフンドさえ恐くて触れなかった父が、17キロもあるばーたんを嬉しそうに抱っこしている。
父と。仲が良くて驚いた写真。
皆にかわいがられすぎて、「かわいい」が自分の名前だと思っている節もあった。
いつか弟の奥さんが、「ばーたんは、このファミリーで、最も重要な存在だから」と、笑いながら、結婚したばかりの夫に言っていた。
それは本当にそうで、家族でこまごま意見の相違はあれど、「バルはかわいい」「バルを大切に」というのは、一寸の疑いなき総意だった。
バルが体調を崩す1年前、私たちの結婚式では、絵が得意な義妹と夫が、プログラムとウェルカムボード 用に、腕を奮って(そして、若干イケメンに描くサービス精神とともに)バルのイラストを描いてくれた。
結婚式というより、コーギーパーティーのような会場になったけれど、それは私たち家族が喜ぶなによりのプレゼントだった。
バルも立派に花婿と歩いて、皆に褒められた。かわいい、えらいと、今でも家族で定期的に話題になる。
人前と写真が苦手な私に、笑顔の結婚式の写真が撮れたのは、目線の先にバルがいたおかげだ。
いつになく精悍な表情をしていた。
とにかく、「かわいい」を一心に受け止める存在だった。
それはとてもすごいことだったのだなと思う。
人間の子どもだって、幼少期は「かわいい」を素直に受けとるけれど、ある程度成長したら、たいてい逃げるようになる。
かわいいかわいい言われ続けたら、重いし、うざいし、かわいいままでは、自立はできない。
それがバルは、16年間、「かわいい」と言われ続け、それを当然という態度で、ふてぶてしく受け取り続けてくれたのだ。
子どもたちが実家をでて、孫もいない両親は、バルをかわいがることを人生の中心に据えていた。
弟と私も含む家族LINEの話題は、ほぼバルだった。
弟はスイスから、私はトルコから、どこまで聞いているかはよくわからないけど、テレビ電話でバルに話しかけ、手を振った。
トルコからのテレビ電話。
あらためて実家に帰った年末、ビザの関係で、ベトナム行きが何日か延期になるのが決まったのは、出発直前だった。
ぎりぎりでなんとか準備を済ませたのにと、私は夫にさんざん文句を言いながら、手続きのために一時的に実家から東京に戻った。
東京のホテルで、バルの夢を見た。
バルは皆が集まった夏の日のように、ぴょんぴょんと跳ねていて、
「あれ、ばーたん、元気になったの?
よかったね」
と私は話しかけた。
嬉しそうに、皆がいるのを見ていた夏の日。
バルが息を引き取ったのは、その翌日だった。
結果的に出発が延期になったおかげで、私はお葬式に参列することができた(最近のペット葬はとても進んでいて、人間のように骨上げや読経もある)。
花に囲まれたバルは、すやすやと眠っているようで、呼吸が苦しくなさそうでなんだか安心した。
そして、やはりとてもかわいくて、家族は何度も「かわいいね」と言った。
——
バルが来る少し前に、妹のようにかわいがっていたダックスフンドが死んでしまって、私はかなり心が参ってしまいました。
だから、自分より寿命が短い生き物に思い入れを持ちすぎないようと、バルとはある程度の距離感のある関係性を築いてきたつもりでした。
それでもやっぱり、感謝の気持ちを書くには、1年たっぷりかかりました。
というわけで、喪中でして、新年はこのようなレターです。
本年もよろしくお願いいたします。
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