夢の隠遁生活

[日曜の窓辺からVol.49]サリンジャーへの憧れと、人と集まることについて。
やすむ 2023.12.03
誰でも

J・D・サリンジャーは、『ライ麦畑でつかまえて』の大ヒットの後、ニューヨークを離れて、ニューハンプシャー州で、他者との交流を断った隠遁生活を送るようになった。

『ライ麦畑でつかまえて』出版の15年後、46歳のときには作品の発表も辞め、91歳で亡くなるまで新作を発表することはなかった。ただ家のなかで、小説は書き続けていたという。

大学生のときに、このエピソードを知ってから、「隠遁生活」というものに、ずっと憧れていた。

金銭的にも社会的にも、世界的大ヒット小説を書いた者の特権だとは思いつつも。大ヒットをだしてしまったからこそ、注目から逃れるためにはそうせざるえなかったという面も大きいだろう。

それでも、東京でいろいろなものに追われる日常の狭間で、友達や夫に「隠遁生活したいんだよね~」とちょくちょく言っていた。

そんなぼんやりと持ち続けていた夢が、今年、はからずも叶った。大ヒット小説もなにもだしていないのに。

2023年の5月から10月前半、私はだいたいの時間を家で過ごした。

8月の途中までは体調が悪かったので、やむおえず大人しくしていたところもあったのだけれど、9月あたりからは、積極的に隠遁した。

もともと仕事を休むベトナム滞在中は、アジアを旅しようと思っていたので、大きな路線変更だ。

厳密には、夫と暮らしてはいたし、オンラインでは一部の人と話していたし、ごはんやお茶、買い物で街に1人ででることはあった。月に1~2回くらいは、人と直接会ったりはした。

ただホーチミンに知り合いが少ない、そして仕事をしていないのをいいことに、できるだけ人とは会わず、知り合いを増やすアクションはできるだけとらず、ひっそりと過ごした。

元々あまりしないけれど、SNSやLINE、メールでのコミュニケーションも最低限だ。

サリンジャーも奥さんはいたし、1人で村をふらついたり、地域の子どもたちと交流したりはしていたらしいので、なかなか隠遁らしい生活だと思う。

おかげで、たまに3人以上の人と会うと、翌日は寝込むという脆弱な体質になった。笑

社会性は落ちているかんじはしたけれど、なにしろ夢の隠遁生活だったし、とても幸せだった。

一部の気を許せる人とたまに話し、あとは静かに1人で作業をする。

なんて贅沢なんだろう。これがずっと求めていた状態かもしれない、と思った。

冬眠を終えた動物のように、急に外に出て人に会うようになったのは、10月後半あたりからだ。

隠遁中も会っていた数少ない友人に誘われた会にいくつか参加したり(参加した翌日はやはり寝込みつつも)、年末に控える出産に向けて情報を集めはじめたりしたことが、きっかけだった。

日本のように冬がくるかわりに、雨季が終わり少しだけ涼しくなるホーチミンだからというのも、あったかもしれない。

あんなに隠遁生活を愛していたのに、人に会いはじめると、これもまた面白い。

起業をしている人。東南アジアで暮らしたいからと転職をしてこの街に来た人。夫に帯同しながら、キャリアを模索している人。ホーチミンには、いろいろな人がいる。

出産を経験してきた人たちは、知らないことだらけの私に、情報も物も惜しみなく与えてくれる。大変エピソードがつきものな出産体験を、楽しい笑い話にしながら。

海外での出産や子育ては、隠遁せずに連帯しないと、難しそうだなというのもわかってきた。

11月には、20人の人と、オフラインでの読書会をした。

人と人が話すことで、人の心が連鎖して動いていくのが見えて、自分の心も動いた。

平穏な隠遁生活では、成し得ないことだと思った。

夢の隠遁生活、その後の人と会う日々を経てみると、意外とどちらも楽しんでいる自分がいた。

今は、ちょっと隠遁多めで、生活や生計、社会性を成り立たせられたらいいなという気持ちだ。

ーーーーー

物語を書きはじめた時期から、隠遁生活まで、サリンジャーの半生を描いた映画↓

思っていたより普通の人らしいところもあったし、だからこそ共感される小説を書けたのかと思える映画です。

「作家の声は物語に個性を与えるものだが、出過ぎてはエゴになってしまう」

「君の声は素晴らしい。でも、説明し過ぎる。読者の想像力を信じろ」

映画の序盤、大学の指導教官がサリンジャーに言うこの言葉が印象的で、人の文章を読むときも、自分で文章を書くときも、よく思い出します。

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