逆カルチャーショックの記録【Vol. 2】目を逸らす東京、子どもに手を振るホーチミン
目が合いそうになると、すっと逸らされる。
娘は人をまじまじと見るほうなのだけど、0歳の目線からも逃げるように遠くを見る人が多い。
他人をじろじろ見てはいけない、というのがこの国のマナーだったことを思い出す。
街では、店員さんだけが、話している。
それに応える人は、ほぼいない。
とはいえ、店員さんも、それを気にしていないように見える。
店員さんも、話しているようで、既定の文言を発しているだけなのだ。
レジの列の並び方だったり、お会計の方法だったり。クレームがでる前に、案内を放送しているようなかんじだ。
親切で行き届いているようで、その人自身は見えないし、私や娘を見ているわけでもなさそうだ。
抱っこ紐にいれた娘と2人で飲食店にはいって、「2名様ですか?」と言われて、「あ、2名、この子もいれたらそうです」と少し笑って答えると、「2名様ですね」と無表情で返される。
席も使わないし、食事も食べない、こんなに小さい赤ちゃんも1名様って、ちょっと面白いなと思ったのだけれど。
ベトナムだったら、ホーチミンだったら、「もちろん、このかわいいベビーも重要なお客さんですよ〜」と、にこにこと返ってきたかなと思う。
おそらくデータ入力に必要で便宜的に聞いているだけなので、早く済ませたいんだと、2回目くらいで気づいた。
かつて渋谷でサンプル配りのアルバイトをしていたときのことを思い出す。
ひたすらそのサンプルの効用を繰り返し、受け取ってもらえたりもらえなかったり。
行き交う人と会話はほぼしていないが、声を出してやりきった妙な達成感があった。
帰国前、日本旅行帰りのベトナム語の先生に会った。
先生は「日本、楽しかったよ。桜も見れたし!」という話のあとに、娘を見て「でも、お母さん、大変かも」と言う。
「地下鉄で荷物たくさん持ったお母さんと赤ちゃんいたんだけどね。赤ちゃん泣いちゃったの。そしたら、みんなしーんって。なにも言わないし、見ないようにするの。すぅって。それ見てこわ〜て、思った」
そのときは、「えー、こわっ」と笑いあったが、はじめての電車は、本当にそんなかんじだった。
静かな車内で、娘が声をあげる。
あやしながら目をあげると、たしかに皆こちらに目を向けないようにしているようだ。
隣の席の中年女性に、ばたばたする娘の足があたってしまい、「すみません」と言うと、まっすぐ前を向いたまま、微動だにせず無言。
たまたまそういう人だったのかなと思いきや、他の日で同じ状況になった若い男性も、同じく無反応。
バスの入口でベビーカーの車輪がつっかかったときも、目の前に立つサラリーマン風の人たちと運転手さんは、こちらを見ないようにしているようだった。
がたがたと焦って車輪をはずすと、無言でバスは発車した。
「ベビーカーはそのまま、公共交通機関に乗ってもよいものです」と丁寧に説明するポスターは、各所にある。
バスの入口は、ベビーカーでも入りやすい構造になっていて、すばらしい。
コミュニケーションをとらなくてよい、仕組みがととのえられているようだ。
エレベーターやヨガクラスで一緒になる同じ子連れのお母さんでさえ、自分の子と先生にしか、笑いかけない人がけっこういる。
たまに発される言葉は、もっぱら「すみません」。
設備や先生がしっかりしているから、なにも問題はない。
でも、私の挨拶をスルーするのはともかく、娘が笑いかけても目を逸らされると、少し悲しくなる。
そういうお母さんの子は、近づいていく娘の存在はないかのように、兄弟だけで遊んでいて、それもまた悲しい。
ベトナムだったら、とつい思ってしまう。
エレベーターを待っている間は、隣のベビーカーのお母さんと、お互いの赤ちゃんににこにこと挨拶したり、「これいつになったら、乗れるのかなぁ。赤ちゃん、何ヶ月?」と話したりしていた。
赤ちゃんがぐずったら、近くにいる人があやしてくれていた。レジの人とか、隣の席のお客さんとか。
私が気付く前に、娘が笑って、あやしてくれている人に気付くことがよくあった。
5歳くらいの女の子が、さかんに投げキッスをしてくれていたこともあった。
空港の荷物検査の人が、荷物をまとめているあいだ、抱っこしておいてくれたりもした。
帰ってきて、その知らない人たちの即座のあやしで、とても楽をしていたことに気付く。
今は娘がぐずったら、私と娘だけでどうにかしないといけない。
その感覚からすると、ベトナム人の先生が言うとおり、日本での自分たちが存在しないかのような無反応は、「こわっ」というか、へんなのと思う。
とはいえ、私も人生の大部分は日本で過ごしてきた日本人。
無言、無反応の意図は、なんとなくわかる。
赤ちゃんが泣いて目を逸らすのは、「気にしていませんよ」という気遣いの意味もあるのだろう。
じっと見ると、余計お母さんを焦らせてしまうかもしれないという配慮。
つっかかったベビーカーだって、本当に大変そうだったり、タイミングが合えば、手を貸すのだと思う。
ショッピングモールの重いドアを開けてくれる人、電車やバスで席を譲りましょうかと言ってくれる人たちは老若男女問わずよくいる。
交流が目的の子育て広場的なところに行けば、気軽に話せるお母さんはたくさんいる。
エレベーターやヨガは、交流の場ではないから、挨拶をしないということなのか、集まる層が違うのか。
しばらく日本にいて気づいたのは、娘がぐずりそうになったとき、控えめに迷いながら娘を少しあやしてみようとする人がいることだ。
そこで気づいて、私が娘に「よかったね」と言うと、もっと大胆にあやしてくれる。娘が笑う。
親である私に、遠慮している人が、一定数いるらしい。
「他人に、特に他人の子どもに、介入しないように」というのが、重要な価値観なのだ。
お母さんに、なにかこだわりがあるのかもしれないし。
男性から女性の場合、身の危険を感じさせないようにという配慮もあるだろう。
そういえば、私自身も、そうだった。
20代あたりから、親戚の子も大きくなり、めっきり子どもと関わることがなくなってからというもの、子どもにどう接すればいいかわからなくなってきていた。
子どもがかわいいという気持ちも、久しく忘れていた。
ネット上で、おせっかいに怒る母たちの発信を見て、遠慮する気持ちもあった。
子ども支援系のNPOに寄付したり、書籍を読だりしていたのに、目の前の子どもには、妙に緊張して触れないようになっていた。
干渉しあわない東京の距離感にも、心地よさを感じてきたほうだ。
1人飲みカルチャーのある日本最高とは、今も思っている。
ベトナムでは、道行くおばちゃんに、娘の肌荒れを見て、そこの薬局でこの薬を買うべし的なことを言われたりした。
ベトナム語ががいまいちできないのをいいことに、わかったようなわかっていないような反応でやり過ごしていたけれど、言葉ができたらそのおせっかいさが面倒だったかなとも思う(病院で処方された薬あるのでとか、いちいち説明したり)。
そもそも自分はそんなに社交的ではないし、人と話すのが苦手なほうだという自認がある。
(その「よそよそしさ」の一部が、日本の雰囲気を取り入れていたのかもしれないというのは、今回新たな発見だった)
だから、他人になにか言えるような行動はしてきていないのだけど。
もっと気楽に、知らない人とコミュニケーションとってもよいのでは、と思う。
店員さんとも、道行く人とも、マニュアルではない人間同士のコミュニケーションをすればいいのに。
市役所や子育て広場には、いたるところに親を孤立させないように、サポートダイヤルやコミュニティの情報が張り出されている。
そういう丁寧な仕組みやプロのサービスと、街でのよそよそしさのアンバランスさが、奇妙に感じる。
娘は外で会った人をじっと見る。
自分がじっと見ると、人は笑ってあやしたり、「かわいいね」と言うものだと思っている。
それで自分が笑顔になると、相手はもっと笑顔になる。
ベトナムでは、そのサイクルが自然だった。
だから、東京の人の無反応には、あれ?と拍子抜けしているように見える。
その様子を見ると、残念な気持ちになる。
世界に来て、まだ1年も経っていないのだ。
世界にwelcomeされていると感じてほしい。
先日、バインミー屋さんに立ち寄った。
帰り際、店主のベトナム人男性が、お店の出口の段差のところで、すっとベビーカーを持ち上げるのを手伝ってくれる。
お礼を言って顔をあげると、その人は、娘に笑顔で手を振っていた。
これが嬉しいんだよなぁ。
私は久しぶりのベトナム的な優しさに、心底ほっとしたのだった。
——
その後、静岡の郊外で、4両編成の電車に乗るやいなや、老夫婦に「かわいいやぁ」と声をかけられました。
そのすぐあとには、向かいの席に座ったおじいさんが、娘にピース。
日本でも、場所によって、けっこう違うみたいです。
あと東京でも、孫がいるっぽい人たちには、よく話しかけられると、気づいた最近です。
(私が見ているのは東京やベトナムのごく一部なはずで、そこから批判的なことを書くのはなぁいう気持ちと、帰国して一番気になったことだから書きたいという気持ちの間で、過去一書くのに時間がかかってしまいました)
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