ただ、あなたの表現を聴く
久しぶりに憧れる人に、出会った。
知的や精神、身体に障害をもつ方々がアート作品をつくっている「やまなみ工房」という施設の施設長、山下さんという人だ。
同僚がここがすごいと見つけてきたのがきっかけで、この施設を撮った「地蔵とリビドー」という短編映画を見た。
ホームページを見るのが一番早いけれど、やまなみ工房の人たちの作品は、すごい。

今も渋谷で一部の作品が展示されている
個性(という言葉では陳腐な気がする)があって、つくった人そのもののような気迫がある。海外も含めたアート市場で高い評価を受けている作品も多いのだという。
このこと自体は、すごく珍しいことではないのかもしれない。障害がある人のアート作品を展示したり、売ったりする団体や企業は、最近増えている。
ただ個人的にそうした団体に、違和感を持つこともある。「障害がある”のに”、こんなにすばらしいアートをつくれるんです」というメッセージを発するような見せ方なのではと、思うことがあるのだ。持ち上げているようで、見下しているような、気持ち悪さを感じていた。
山下さんややまなみ工房に惹かれのは、ここはそういうスタンスではなさそうだと感じたからだ。
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』という本にでてきた、福島にある「はじまりの美術館」という美術館の館長、岡部さんの言葉を思い出す。
美術館を始めた当初は、障害のある方の作品を見てもらうことで、障害者のイメージを向上できるのではないかと、アートを“イメージ転換装置”のように見ていたときもありました。
今岡部さんは、誰しもが「生まれつき持っている表現の力」を感じて、アート自体に惹かれているのだという。
本を読み返してみたら、偶然にも(必然かも)この岡部さんの言葉のすぐ前に紹介されていたのは、映画にもでてきたやまなみ工房の酒井美穂子さんという方の作品だった。
「サッポロ一番の醤油ラーメン」のパックを触るのが大好きな酒井さんが、20年にわたり握りしめた「サッポロ一番の醤油ラーメン」を並べた作品だ。
「やまなみ工房」のスタッフは、これもひとつの表現の形だろうということで、酒井さんが握りしめたラーメンに日付をつけて保管していたそうです。
「地蔵とリビドー」のなかでも、やはり酒井さんはラーメンを握りしめている。両手で交互にラーメンを握ると、かさかさ音がなる。
山下さんはそばに座って、静かにしばらくその様子を眺めてから、一緒にラーメンを見る。それから「なにしてんの?」と、関西弁で声をかける。酒井さんは答えない。
「ちょうだい」と言ってラーメンの端を山下さんが少し触ると、酒井さんが身体を少し後ろにしてその手を離させる。山下さんが「ごめん…」という。酒井さんはラーメンをかさかさ鳴らしつづける。
次の場面で、腹這いで二人は向き合っている。酒井さんは肘をついて、ラーメンをかさかさいわせている。その次の場面では、山下さんが腹這いの酒井さんの横に移動して寝そべっている。
静かな昼下がりだ。
映画のなかでは、他にも何人かの方と山下さんとのやりとりがおさめられている。
ひたすら山下さんの像をつくりつづける女性は、照れながら、嬉しそうに山下さんに作品の説明をする。
20年間縦方向に刺繍を縫い続ける女性とは、会話の合間合間に関西弁でつっこみあって、笑いあう。
とても細かく「目、鼻、口」を描き続ける男性は、「どれ、目?」と山下さんが聞くとはじめは答えない。「教えてくれよぉ」と言うとどれが目で鼻で口か指をさす。お決まりなのか、男性がばんと銃で撃つ仕草をすると、山下さんが男性に倒れ込む。
それぞれコミュニケーションの方法は違うのだけど、どれもこの人たちはお互いのことが好きで信頼があり、リスペクトがあるのだろうなというかんじがする。
そして、誰も急いでいない。自分が表現せずにいられないものに、没頭している。
山下さんは、リラックスして話しかける。答えがすぐかえってこなくても、焦らない。時間はたっぷりある。そんな佇まいだ(やまなみ工房のサイトの展示情報などを見ると、忙しいのではという気もするのだけど)。
私はこの光景に、すっかり魅力されてしまった。時間も評価も気にせず、表現していられること。表現している人の話を、言葉になっていないことを含めて、その人だけに集中してゆっくりゆっくり聴けること。
それは、あれをやらなきゃ、間に合わない、あの人はどう思っているだろう…と日々やきもきしている私に足りないものに思えた。
【編集後記】
「地蔵とリビドー」はこちらでレンタルできます。カンディンスキー的な系譜を感じると、キューレターに評されている方もでてきたりします(ちょうど毎月参加しているもしゃ会で、昨日カンディンスキーを模写したところでした)。
やまなみ工房の方々の作品は、今も全国各地で展示されていて、私も今日渋谷の展示に行ってきました。
そこで見た実物の絵には、映画の柔らかな対話の雰囲気とは違った、そわそわしてしまうような鬼気迫るものを感じました。
心身の不調を作品に反映して癒やしているところがあるのかもしれません。見た絵とは他の方ですが、映像のなかではそういうふうに作品づくりをしているという方の話もありました。
そういうわけで絵を見てから、柔らかな印象についてだけを書いた、今回の文章に少し迷いがでてきたのですが。
あの柔らかい関係性や時間の流れの存在があるからこそ、発散できるものがあるのかなという気はするので、現時点で私が受け取ったものとして、今週はお送りします。
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