本当に書きたいことがある人とは
本当に書きたいことがある人はね、とめどなく話すんですよ。
最近聞いたこの言葉が、引っかかっていた。
ひとつは、単純にダサくも、自分自身がとめどなく話せないタイプだから。それでも書きたいことがないわけではないと思いたい。
もう一つは、編集の仕事をするなかで、そんなことはないのではないかと思った。
少し止まってから話しはじめたり、ときには考えてつまりながら、ぽつぽつ話したりするときに、その人だからこそ語れることが、表れることがある。
それは「これが書きたい」と明示的に思っていることではなかったかもしれない。
でも、これまで語ってこなかった、言葉の形を呈していなかったもののなかに、本当に伝えたかったことがあるときもある。
それを一緒に見つけていくのが、編集者の仕事の面白さなのではないかと、自分が思っていることに気づいた。
とめどなく話す内容を書き起こすだけなら、出版はただの拡声器になってしまうじゃないか、とさえ思う。
聞き手になることは、人間という芸術作品を鑑賞し、感動する行為でもある。
そんなことをしばらく考えていたときだったから、昨晩読んだ本のこの言葉を思わずメモした。
芸術作品を鑑賞するくらい大切に、人の話を聴くことができたら。聴く余裕を持つことができたら。
(なんだか焦っていて、最近できていなかった気がする)
この文章を書きながら、先月見たドキュメンタリーで、終末期医療に取り組む医師が言っていた言葉も思い出した。
「辛い状況でも、雲の晴れ間のような希望が訪れることがる」
「その人なかに、埋もれていたやりたいこと、希望を見つけていくんですよ」
そのドキュメンタリーは、ある患者の4ヶ月ぶりの外出の場面で終わる。
冒頭で「生きててもしょうがないわ」と、苦しそうな呼吸の合間にこぼしていた人だ。
若い頃は、世界を飛び回って仕事をしていたが、今は歩くことも苦しい。
介護ベッドを中心にした部屋の隅には、その頃集めていたイギリス王室御用達ブランドのおしゃれな帽子があった。
4ヶ月ぶり、笑顔で近所のスーパーマーケットに行くその人の頭には、お気に入りのその帽子がある。
視聴者は1時間の番組で、わかりやすくその希望を見ることができる。
ただたぶん帽子をかぶって、近所に行こうと思えるまで、雲の切れ間のような笑顔に行き着くまで、患者も医師も介護者も、辛抱強く過ごしてきたのではないかと思う。
きっとその帽子は、元気に旅していた頃の自分との差を感じさせるものでもある。
「埋もれていたやりたいこと」が、どんなかたちをしているのか、他者はもちろん、本人にもなかなかわからない。
世界はノイズで溢れている。
やるべきこと、やったほうがいいこと。
それをできていないと、自分のなかで積み重なる負い目。
できるはずの自分でない辛さ。
注意力を奪うコンテンツ。
オンラインで大量に流れ込んでくる他人の声。
早く応答したほうがいい連絡。
自分を評価しそうな人の目。
それを切り抜けるために、整えて準備しておく言葉。
でも、静かに信じて、話しはじめるのを待つ人がいたら、ノイズが鎮む雲の切れ間が見えるのではないかと思う。

3年前、台風のフーコック島で見た雲の切れ間
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とはいえ、自分で語りはじめないことには、書きたいことも話したいことも、見失うのは事実だなぁと思い、久しぶりにニュースレターを書きました。
▼最近ちまちま書いている2歳との日々🌿
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