陶器屋さんと、無為な午後の効能
陶器屋さんで、お店の人と1時間以上立ち話。40代くらいだろうか。流暢な日本語を話す人だった。
ベトナムが平和になったのは、ここ20年くらいだということ。
北部では戦争中、食料が足りなかったとき、できるだけごはんが多く見えるように、小さなお皿を使っていたこと。
作物や気候に恵まれた南部と、厳しい環境だった北部の気質の違い、それがいかに建造物や食器にあらわれてきたか。
豊かな文化は、さまざな侵略の歴史のなかで、その文化のいいところを取り入れてきたからだということ。
その人は、叔父にすすめられてはじめた料理が、今は趣味だという。
私の趣味を聞かれて、読んだり書いたり旅することと答えたら、「ロマンチストなんですね」と言われた。
日本で言われる「ロマンチストなんだね(笑)」とは違って、おそらくいい意味。
水色や黄色の陶器には、手描きの花柄が描かれている。たしかに、アジアの雰囲気がありながら、絵筆のタッチはどこかフランス風で、それがなんとも魅力的だ。ベトナムの国花の蓮を描いたものもある。
青と黄色は大好きで、インテリアや食器はこの2色にできるだけ統一しているから、ちょうどいい(という自分への言い訳にもなる)。
この小さな楕円のお皿にチーズをのせるのは、どうだろう。少し深さのある大皿に、サラダやスペアリブを載せるのもいい。
水色と黄色の小さなボールを一つずつ買って、クレソンのポタージュをいれたら、黄緑色が映えて、きっときれいだろう。近所の市場では、両手でやっと掴めるくらいのクレソンの束が30円くらいで買えて(というかそれより少ない分量では買えなくて)、我が家の定番メニューになりそうなところだ。
お店の人によると、ベトナムの人だったら、このボールには、角煮と半分に切った煮卵をいれるらしい。最高。
でも、そもそもこの店に来たのは、デリバリーで注文したブン・ボー・フエ(牛肉麺)を入れるためのどんぶりを買いにきたのだったし。
「迷っています」
「ホーチミンに住んでるんだから、またいつでも来たらいいですよ」
「本当ですか。じゃあ、今月のうちにまた必ず来ます」
「もちろん」
そろそろ閉店の時間だった。
帰ろうとすると、日本語よりさらに流暢な英語で、おやつを買ってくれると言う。
「英語できるならね、この街のどこでも楽しめますよ」
ベトナム語をうまく発音できなくて、苦戦していると先ほど話していたからか、励ましの言葉とともに、お店の近くの売店で揚げバナナを買って手渡される。
「ありがとうございます。……あ、これはchuốiですね」
「そうそう、chuối chiênで、揚げバナナ」
買い物にに来て、なにも買わずにおやつをもらう。こういうことが、前にあったのは、10年前にトルコにいたときだっただろうか。
驚きと嬉しさと懐かしさともに、揚げバナナを齧りながら、家路についた。
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先週末、以前担当した本のワークショップに参加しました。そのなかで触れられた、状況や人に深く関与(engage)しながらも、燃え尽きないでいる方法の一つが、「無為になる」時間を持つことでした。
私たちの多くは、目的を定めず無為に、自由にぼんやりするのを忘れてしまっています。(中略)時間を「消耗される」資源と考えると、無為にあることから得られる美、驚き、滋養を、十分に享受できなくなります。
引っ越し、アシュラム、一時帰国を詰め込んだ3月。外からの刺激にびっくりしたのか、しばらく燃え尽きていたようです。
目的を定めず無為に過ごした1時間強の立ち話と揚げバナナで、なにか書きたいなぁという気持ちが戻ってきました。
ということで、こちらのニュースレターも再開します。
「つづく」としていたアシュラムの話は、次回にでも。

無為に歩き回っていたら、出会った展示。Tuyết(ベトナム語で「雪」という意味)さんというモデルの方を描いた絵を集めたもので、ユキという名前の身としては、嬉しい偶然でした。
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